column 日々、思うこと separate

2024.03.17

GK Base Salon

GK Base Salon Vol.11 2024/03

前回に引き続き、深堀隆介さんから創作活動、さらにはアートとデザインとの関連性について伺います。

<渡邉>

「美術作家として生きる良さ、そして大変さは?」というテーマで話しを進めましょう。

<深堀>

よく生きているなと自分自身思います。アトリエを2個借りて、家のローンも払って、子ども達も育てなきゃいけないし、よくこの金魚の活動だけでやっていけているなと思います。ただ贅沢はできていない。遊ぶくらいなら材料費に充てたいし、仕事が遊びみたいな感じです。その代わり、立ち直れないんじゃないかと思うくらい落ち込み、辛くなることもたくさんありました。作ったものが受けなくて、酷評の嵐になるんじゃないかという恐怖もあります。

例えば、こういう作品を作っているんです、みなさんどう思いますかといった会議などなく、一人で黙々と作っているんです。出すまでどう評価されるか分からない。だからピン芸人さんの気持ちが分かるんです。

売れないとやっていけない、売れることは恥ずかしいといったことがありましたが、暮らしていかないといけない。僕の作品をどのように見てくれるかなといったことはいつも考えます。それはデザイン科出身だから、見せ方とか、なぜ金魚なのかということを考えているんだと思います。

—— 確かに、ファインアート出身の作家さんとはちょっと違うかもしれませんね。深堀さんのようにプロダクト的な作品を作って売ったりすると、「これは芸術ではない」といった印象を抱かれるのかもしれませんね。

色々な作家さんもいらっしゃると思いますが、僕は自分の作品で生活したいと思って活動しています。それでまた新しいことを行いながら、これは受けるのかな、受けないのかなといったことを繰り返しています。もし売れなかったら生活していけない。

—— 我々デザイナーは受けないと意味がないんです。お客さまに評価されるものを作り続けなければ意味がない。でも受けるものだけを作っていると一貫性がなくなってくる。じゃあ、自分でなくてもいいや、になってしまうので少しでも自分が介在している表現を出したいといった感情も生まれてきます。

僕は100年後、200年後のことも考えながら創作しています。自分が死んだ後も作品は残る。作品に対してもう一つの味を加える。今感じていることと、自分がこの世界からいなくなっても作品から感じてもらう、という視点を作家は創作しながら考えていると思います。

一方で、作品を作れば保管する場所も必要になる。美術館の個展では大きな作品を求められたりします。そうすると、その作品を管理する倉庫はすぐにいっぱいになるんです。僕の子ども達はたくさんの作品を管理していかないといけないのか、とか。最近閉館する美術館もありますが、大量の所蔵品をどう処分するのかということも問題になっています。各美術館も倉庫に余裕がないケースも多く、作品を欲しくても引き取れない。スペースだけでなく、空調等で良い保管状態を維持しなければならないため、倉庫問題に直面しています。

—— 「大変さ」ということで訊ねましたけど、この倉庫問題という大変さは想定していませんでした。

だから今、NFTといったデジタル作品に人気があるのではないでしょうか。スペースが要らないですし。

—— 一方で、実在感というものに人は惹かれているのではないかと思います。あまりにも画面の中だけだったり、データとしての存在が大きくなり過ぎている。一期一会で取り返しがつかなかったり、手に取った時のずっしり感といったものが評価されているように感じます。

若い人が日本画に興味を持ったり、風向きが変わっているのかもしれませんね。

—— 今は、舶来ものがかっこいいと思っていた時代から随分変わってきているように感じます。

幼い頃、漢字で描かれているTシャツを着ていてかっこいいと思っていたんです。西洋の影響だけではない、YMOのような音楽を聴いて、日本も良いよねという経験をして、そうした経験の積み重ねがあって、金魚だったんだと思います。

バブルの頃は熱帯魚ブームがあって、金魚を描く人たちはまずいなくて、安っぽい、地味といった印象だったことが、むしろ僕は良いと思った。何かかっこいいアクアリウムではなくて、水槽の中の水車や小屋が置かれている空間に対して僕は親しみを感じました。僕にとっては水槽がアクアリウムであって、そうした価値観を海外の人にも楽しんでもらいたいと思うようになりました。

—— 金魚という存在自体が、日本人が江戸時代くらいから作ってきた作品そのものという印象があります。

中国から入ってきて、日本でも様々な金魚の品種が出てきましたが、中国もすごくて、本当に様々な金魚の品種を作り出しています。中国の金魚と日本の金魚それぞれにこだわりが違っていますが、僕は日本人としての金魚で表現したいと思っています。

もう一つ。僕は写真などを見ないで金魚を表現しています。これまでの作品も想像しながら創っています。実際に、13個の水槽で30匹ほど金魚を飼っていますが、水換えの時に間近に見る柔らかな印象とか、そういった記憶を大切にして描いています。「写実の作家」といった評価をされることもありますが、何か写真などを見ながらではなく、自分の中にある印象から描いています。実際よりも尾が長かったりする表現もありますが、絵の中だと成立する。それが自分らしい作品かなと思います。

僕が描く金魚は止まっているけど、よく見るとゆらっと動いているように感じる。そうした表現にこだわっています。

—— ローマやギリシャといった西洋の彫刻に対して、日本にも仁王像のような彫刻があります。とても迫力があって動いているように見えるんだけど、プロポーションで言うとめちゃめちゃバランスが悪い。でも日本的な迫力はとても伝わってくるんですよね。

そういった日本的な表現のV-Maxというオートバイがあるんです。筋肉や生命力といった和を感じさせるバイクです。金魚とバイクの違いはありますが、どこかつながる部分があるように感じます。

それでは、ここで会場のみなさんから質問があればお願いします。

—— 家で金魚を15年ほど飼っていてその成長を感じる瞬間があるのですが、自分の作品の中で、金魚が成長しているように感じることってありますか。

「金魚酒」の作品をずらっと並べるだけでも進化を感じることがあります。大きさというよりも表現の部分で、こういうこともできるようになったという感覚です。そもそもマニュアルがないので、自分でやっていくしかない。教えてくれる人がいないのは美術家としての大変な部分でもありますが、自分で失敗を重ねながら表現を見つけていくしかないんです。例えば、ヒレを描くだけでもどうやって描けば良いのだろうと日々描きながら学んでいくしかない。それが僕の中での成長です。例えば、模様の位置を入れるのも難しさがあります。実際に模様を描いてみて新種を産むという感覚もあります。描くことにより自分自身も成長しているのかもしれません。

以前、ブリーダーの方から「深堀さんの描く金魚を実際に作ろう」と言われて(笑)。そんな金魚実際にはいないんです。モチーフがいて絵描きが描くということが逆転しちゃってるんです(笑)。自分としてはとても嬉しい出来事でした。

—— 自分の中にある印象で金魚を描いていくという話がありましたが、描いていく中で、どのように絵が上手くなっていったのでしょうか。

この時間では話しきれませんが(笑)、昔はウロコが上手く描けなかったんです。しかも樹脂のツルツルの上に描くのは難しかったんです。それでも当時は喜んで見てくれる方がいました。今でも、美術館の展覧会で昔の作品を並べると、つたないけれどもすごくいい味があるんです。きっと見る人間側にも感性が必要なんだと思います。

昔は筆跡を消して描いていたりしましたが、最近はあえて筆跡を残すように描いています。グラデーションが上手く表現できているよりも、ムラのある方が良いといった感覚です。スプレーもたまに使いますが、綺麗すぎてどこか機械的に見えるんです。やはり手で描いた方が味わいもあるし、そうした感覚は大切だなと思います。

最近は、水彩表現も水面の一つだなと思うようになって、水を垂らして、そこに色を置いていく感覚で引っ掻いたり、ヘラでギュッと押して表現することもあります。水面を描いているような感覚があって、そうしたドローイングも制作していますがまだ理解されていなくて(笑)。それにはコンピューターで描いていくのとは違う価値があるように感じるんです。

—— 最後に深堀さんから何かありますか。

渡邉さんと同じように、大学時代の同期がGKに入社しました。僕が作家活動を始めたばかりの26歳の頃、その同期と一緒に表参道を歩いたことがありました。その時、歩道に置いてあったバイクを見た同期が、「このバイクのこの部分をデザインしたんだ」って言われた瞬間の敗北感。頭が真っ白になりました(笑)。そこからしばらくはその同期と何を話したか記憶がなくなったということがありました(笑)。

でもそれが僕のパワーにもなったし、コツコツやっていた時代だったけど、こうして今日、こういう場に来ることが出来たことを嬉しく思います。ありがとうございました。

 

 

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インタビュー : 渡邉拓二

記事:井上弘介

写真撮影:川那部晋輔

全体サポート:竹田奏 / 加藤美咲