column 日々、思うこと separate

2021.03.10

コラム

ハレンチなクリエイション

 本当にそうかは置いといて、一般的にデザイナーという職業はクリエイティブなものとされています。

 最近気がついたのは、このクリエイティブ、と言うやつは「恥」と関係があるのでは無いか、と言う事です。そうは言っても色んなタイプのクリエイションがありますので一概に言える事ではないですが、少なくとも「表現する」と言う事と「恥」は切り離して考えられないのではと思います。

 そもそも路上で歌を歌ってみたり、初対面の人々にドヤ顔で意見を表明したりする事には勇気が入ります。何故ならば恥ずかしいからで、もしかして自分は馬鹿なこと言ってるんじゃないだろうか、後で嘲笑の種にされているに違いない、とか一旦疑心暗鬼になれば止むところを知りません。なので恥をかかないために人は段々と、人前で表現したりアイデアを開陳する事にブレーキをかけるようになっていく訳です。一番恥ずかしくないのは周りの人々の様子を伺って、それと全く同じ振る舞いをする事でしょう。

 しかし、それではクリエイションということに対しては些か都合が悪い、周りと同じ事を言ったりやったりしていてはクリエイションにならない訳です。むしろ如何に人と違う事をやらかしてやるか、と思う気持ちが大事で、これはもう相当なハレンチ漢と言わざるを得ません。さらにそれを不特定多数の人に向ける前提のデザイナーに至っては、これはもうハレンチの極み、相当面の皮を厚くしないとやっていけない訳です。

 何か言ったりやったりするのでも、上手ければ称賛の対象、下手ならば恥、というこの境目は大変危ういもので、どうすれば「上手い」になるのか?と言う事には明確な答えはありません。結局、最初は上手い下手ではなく、「好きだから」という止むに止まれぬ理由によって恥を耐え忍ぶ期間を過ごすうちに結果としてなんとなく上手くなっている、そんなものではないかと思います。

 この「好き」という事が実は何よりも大事で、「好き」が「恥」に負けるとクリエイションはそこで終わってしまいます。しかし今「上手い」とされている人も最初から上手かった訳ではなく、きっと「好きだから」「恥」を耐え忍んだ時代もあったのだろうと思います。

 また、子供のクリエイションは往々にして素晴らしいものですが、彼らは恥ずかしいなんて一つも思っておらず、面白かったり、好きだったりするから、クレヨンを無心に紙の上でこねくり回しているだけです。しかしそんな彼らも、やがてこの世には「上手い下手」があることを知り、恥の概念を学ぶにつれ段々とクリエイティビティを失っていきます。

 育っていく多くの子供のうち幾らかは、「クリエイティブ」な仕事につきます。生まれつき恥耐性が高いのか、好きが故に恥を忍んでいるのかはそれぞれですが、恥ずかしさをどうマネジメントするかがついてまわります。一般的にはクリエイティブとされているデザイナーという職業も例にもれず、アイデアを出したり、議論で発言するにあたり「恥ずかしい」などというのは、もはや職務怠慢と言えます。

 しかし恥を忍んで出したアイデアや発言が実ったりすると嬉しさのあまり、どんどん羞恥心が麻痺してもっと恥ずかしいことも平気で言えるようになって行きます。それでいいんだと思います。

 後先の恥は忘れ、「いいこと思いついた!」を躊躇なく人と共有できるハレンチ漢、というのがデザイナー理想像の一つではないかと思います。

( CMFG動態デザイン部 シニアディレクター 渡邉 拓二 )