column 日々、思うこと separate

2020.01.23

コラム

ウリ坊のコンフィ+レンマ的知性+デザイン

お正月は実家のある千葉に帰省していました。その実家の近くにオープンした「KURUKKUFIELDS(クルックフィールズ)」という施設が、お正月期間限定で無料開放をしていると聞いて足を運びました。
 
KURUKKUFIELDSは、音楽プロデューサーの小林武史さんによって創られました。サスティナブルという循環コンセプトを、現実的な経済社会の中に出現させた壮大なプロジェクト。私の好きな「コトバより行動を」というフレーズそのままに、小林さんご自身の「これからのヒトの生きかた」への意思表示が「農業・食・アート」というコンテンツを通して力強く体現されていました。
 
30ヘクタールという広大な敷地はまるで小さな地球のようです。房総の野生を再現した豊かな森、「母」と名付けられた池と小川の植生による水の清浄循環、そこに棲むカワセミやモリアオガエルなどの生態系、太陽光を使ったパワープラント。眼に見えるものから眼には見えない微生物を含めたキャストの環に、ヒトがちょこんと繋がらせて「いただいている」ことを感じ取れます。
 
肥沃な大地の恵みである新鮮な野菜や食肉は、敷地内にて加工・販売もされています。ソーセージやハムを取り扱うショップでは「ウリ坊のコンフィー」という、なかなかインパクトのある商品にも出会いました。こうした自然の中での循環や生命の現実的営みに身を置いてみると、これからの生きかただけでなくこれからのデザインを考えるきっかけにもなります。
 
「ウリ坊のコンフィー」は、ウリ坊にとって「死」をもたらしましたが、それを食すヒトは「生」の力を授かります。そしてヒトの「死」もまた、それを分解する微生物にとって「生」です。私の日常生活では生と死は区別して考えていましたが、自然界での生命の営みという視点でみれば、生と死は別け隔てなく重なり合っているもの、と気付かされます。そして、この事物を区別せず事物はお互いに関係し合っている思考こそが、これからのデザイン創造には必要な知性になるのではないか、と私は考えました。
 
古代ギリシャ哲学では、理性という言葉には 2つの知性が共存していると考えられていたそうです。1つめは事物をキッチリ分別して整理する「ロゴス的知性」。特に西洋の近代科学において最も重視された知性ですが、言語を礎とするため線形性を帯びています。2つめに、ロゴスの対比として据えられていた知性、「レンマ的知性」です。レンマは事物を分別せず直観として全体を認識し、その思考は非言語的で非線形性を帯びています。
 
そのレンマ的知性によって世界の実相を捉えようとしたのが仏教であり、東洋において稀有の文化を形成していきました。そしてその仏教を辿ると、華厳経にある「相即相入(そうそくそうにゅう) = お互いが融け合い(相即)、影響し合う(相入)関係のこと 」という論理へと繋がります。
 
目の前の「生」の裏には見えない「死」、目の前の「死」の裏には見えない「生」がある。事物のすべては繋がって成り立つ「相即相入の論理」が、自然の循環を実装したKURUKKUFIELDの深部に流れています。海の見える敷地の丘でフワフワのシフォンケーキを頬張りながら、眼に見えないその裏・その先にあるキャストを「見通し・見抜いて・繋げて思考すること」の大事さをぼんやりと考えていました。
 
ロゴス的知性の延長にある現代のAIテクノロジーの隆盛が、逆説的なかたちでレンマ的知性の存在と必要性を明らかにしつつあります。昨今ではアート鑑賞やMFA(美術学修士)、ソーシャルインテリジェンス(人間理解に関するスキル)への意識が高まっていますが、その殆どがレンマ的知性の礎の上に成り立っているといってよいでしょう。
 
幸運なことに、レンマ的知性が文化的に昇華されたこの地に私たちは生を受けました。この地(知)の思考探求と実装こそが、これからのデザイン創造のミッションとして私たち日本人デザイナーには課せられているのではないでしょうか。
 
(CMFG動態デザイン部 デザインディレクター 早瀬 健太郎)