column 日々、思うこと separate

2019.11.14

コラム

カラーリングデザインのモチベーション

私はかれこれCMFGデザイン、すなわち製品のカラーリングデザイン業務に従事して20年近くになりますが、いつ頃からか肝に命じていることがあります。それは「何のためにカラーリングデザインは必要なのか?」と言う極めてシンプルな自問です。
時に製品のカラーリングと言うものはデザインの後工程として捉えられがちです。実際、製品を世に送り出す過程にて「大事なのはエンジニアリングと造形、カラーは付け足し工程」といったような意見に出会う場面もありました。最初は職業的自負心から「そんな事はない」と頑なに思っていましたが、あるときから自分のこうした考えに疑問が湧いて来ました。
「本当は要らないんじゃないか?要ると思い込んでいるだけでは?」
「只の飾りなら無くても差し障りはないのでは?」
実際、素材を保護するだけなら殊更色をつけたりしなくても良いわけです。速さを誇る二輪車の場合、理屈から行けば塗装やグラフィックなどは無いほうが軽量なわけで、益々カラーリングというものの存在意義が怪しくなってきました。大学でグラフィックデザインを学び、就職してデザイナーになったから、と言うだけの理由でカラーリングをやっているに過ぎないのでは?とも思うようになりました。
製品を売るための強力なツールになる、ということは勿論あると思いますが、「売れる」と言うのは価値があるからこその結果です。価値が何なのか解らないまま売れるものを作ろう、というのはどこか遠回りしている感じがします。
こうして考えているうちに気づいたのは、価値は合理的なものに限らない、と言うことです。実際は原材料分で幾らか重くなっているにも関わらず、速そうなカラーリングは、人を速く走っているような気持ちにさせたりします。この「気持ち」には合理性というものはあまり関与していませんが非常に重要です。
合理性を突き詰めた良さ、と言うのは当然存在するというか寧ろ主流ですが、非合理なものに魅力を感じてしまうのもまた人の性と言えます。この辺にカラーリングデザインの存在意義と、デザインする側のモチベーションが潜んでいるのではと思います。
「本当は要らないんじゃないか?」と言う合理的自問自答の末、最近はこうした非合理な思いを持つに至りました。考え方や価値において合理と非合理はコインの裏表の様な間柄にあるのではないかと思います。どちらか片方だけではコインそのものが成立しませんが、両方をいちどきに観ることはなかなか難しいものです。
ただ製品を使う当事者である人間そのものが合理と非合理を併せ持つ存在である事は興味深いところです。コインの両側を観るために、時として人はモノに自身の姿を無意識に投影しているのではないか、と考えると私的にはしっくりときます。
合理的には必要ないが故に、存在価値を見出す、創り出す所から始めるのがカラーリングデザインの妙味だと今は思っています。これは私にとってのモチベーションでもあり、そもそもを辿れば大前提である「カラーリングデザイン」自体を疑う所から始まりました。
信じたいがために大切なものを疑うというのもまた、モチベーションを保ち続けるためのコツなのではと思った次第です。そしてまた、これはカラーリングデザインに限った話ではないとも思います。
 
(CMFG動態デザイン部 デザイン・ディレクター 渡辺拓二)