column 日々、思うこと separate

2019.12.11

コラム

「 菊の季節に思うこと 」

この時期になると、毎年新宿御苑で菊花壇展なる催しがあり、そこに大作り花壇が展示されます。一株の茎から半円形状に伸びた数百の枝先に、ひまわりの種のフィボナッチ配列の様な数学的な配置で咲く菊の様は、まさに壮観です。
感覚に差はあると思いますが、あたかもデジタル工程を経て出来たような状況が美しく気になります。似たようなものに、ドライフラワーで見掛ける蓮の花托がありますが、こちらは集合体恐怖症(トライポフォビア)の例に出されるように、何か見る者の心にゾワゾワとした違和感を抱かせます。私自身は違和感程度ですが、嫌悪感を持つ方も多いですし、逆にフェチなほど好きな方がいるのかもしれません。
集合体恐怖症自体は、太古の時代より危険生物の見た目や伝染病の発疹などの様から、人に危険を警告しているという説明が定説とされます。命を守るためにDNAレベルに刻まれた生理的な記憶といったところです。
面白いことに、このゾワゾワした感覚はどんどん伝播していきます。凹みだらけの蓮のドライフラワーを見ただけで、乾燥前の実の詰まった肉感的な形や触感などが想起され、あたかもそれに触れたかのような感覚が皮膚に伝わり鳥肌が立つという具合に、視覚からリアルな触感まで繋がる構造で人の中に広がります。
最初の入力とリアルな感覚が生成されるまでの要因は人により様々ですが、デザイナーが日々考える美しさも同じ構造で出来ているのかも知れません。
美しいと感じることが、DNAの生理的な記憶のみならず、生まれてから会得してきた全ての記憶と五感をフル稼働して人の中で生成されたリアルと捉えてみると、実はそれ自体が、各々の頭の中でその都度生成された感覚としてのみ存在しているだけかもしれないと思うのです。
翻って「美しいデザインとは?」と考えてみると、単純な見た目に限定すれば、状況を分析して最大公約数的なエッセンスを取り出した旨味調味料の様な物は作れるかもしれませんが、万人の中に美を生成する万能調味料には成り得ない。結果的に、万人の認める絶対的な美しいデザインなど存在し得ないのかもしれません。
それでも、少しでも多くの人が美しいと思えるデザインを増やして行けないだろうか?、などと考えてしまう年末の夜長です。
 
(プロダクト動態デザイン部 シニアディレクター Y・T)