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講演![]() |
ブディズムとデザイン 石山 修武 建築家/早稲田大学教授 ![]() 「静けさのデザイン」という今日の主題に対して、私はレバントさんのアルゼンチンタンゴの話と同じように、私はその疑問ていうか、そういうものに答える一つのキーワードとして廃墟、あるいは遺跡っていうものの持つ問題を提示したいというふうに思います。ご承知のように、フィンランドに限らずヨーロッパの現代芸術、あるいは現代デザインっていうのは、私の考えでは深く歴史というもの、特にフィンランドでは、その国の歴史というものと深く関連を持っているというふうに思われます。歴史というのは建築に置き換えてみますと、もう具体的に遺跡という問題なんですね。あるいは廃墟という問題になろうかというふうに思います。 ヨーロッパでは、まあどこでも、どこの町にも、どこの都市にも、どこの村にも、何らかの遺跡、あるいは廃墟っていうものが明晰な形で残されております。それで人々は、まあ普段の生活の中でそういう遺跡、あるいは歴史、これは歴史と、もう同義語で同じことですね、その歴史に常に触れて、つまり常に歴史っていうものに具体的に触れて、いろいろな気持ち、フィーリングを育ててきていると思うんです。レバントさんのアルゼンチンタンゴの問題っていうのは、基本的にフィンランドはメランコリーじゃないかなあと思います。メランコリーという言葉、これは日本語にはなかなか訳しにくい言葉なんですね。憂鬱、日本語だと憂鬱っていうことになるかと思います。僕はフィンランドのデザインの良質なものとは、良いものに非常に通底しているものとして、木とかそういう材質とかいうことよりも、深いところでデザインの中にメランコリーがあるというようなことを、ちょっとこの頃感じております。まあ、その問題を、今日はブディズムの問題も少し話したいと思うんですけど、まあこれは本来栄久庵憲司さんが話した方がよほど明快に話せると思いますが、今日はいらっしゃらないんで、ちょっと栄久庵さんのスタイルを借りながら、お話ししてみたいと思います。 メランコリーというものの気分というのは、やはり歴史、あるいは具体的な遺跡というものを通して深く醸しだされます。特にフィンランドは、皆さんご承知のように、建築のデザインではナショナル・ロマンティシズムという非常に独特のスタイルが確立されたところなんです。これも、やはり私は地勢学的なメランコリー、歴史の中のメランコリーっていうものと深く関連しているだろうというふうに思います。 それで、われわれのアジア、あるいは日本にはそういう遺跡っていうものがあるんだろうかというようなことをちょっと考えてみますと、ブディズムの発祥の地でありますインド、あるいは、そこから経由してきました東南アジアチベット文化圏、中国大陸では壮大な遺跡っていうものが当然残されており、また、過去にも存在しておりました。しかし、日本には本質的に皆さんも多分お気づきになっているとは思うんですが、そういう意味での遺跡、あるいは廃墟っていうものはないんですね。せいぜい芭蕉という人が詠んだように“ふる池や蛙飛び込む”とか、“兵どもが夢のあと”というような、少しセンチメンタルな感じでの廃墟っていうものはあるんです。けれどもヨーロッパで見られる廃墟っていうものは、日本にはございません。 しかし、その‘ない’ということはどういところに発生しているのかというと、建築が木で造られたからすぐ腐っちゃうっていうような単純な問題だけじゃなくて、それは深く、やっぱりブディズムの問題と関係があるだろうと。まあ私は仏教研究家じゃないんでブディズムを深く理解しているわけではありませんが、仏教の本質というのは、釈迦が常に言っていた事として、要するに、人間っていうのは輪廻する、それから、自然も輪廻する、生まれ変わる。それで、まあ単純にいうと、形あるものは必ず滅びるっていうような観念なんですね。これは、釈迦が今生きていたら、デザインていうと、デザインは必ず滅びるっていうようなことを言っているようなことで、かなりデザインていうものに対しては、ちょっと懐疑的な思想だったんじゃないかというように思います。それで、われわれの中にはそういうものが、もう、今皆さんの中にも、私はブディストである事を言明する人は一人もいない。この会場にはおられないだろうと思いますし、私もそれは、まあ言うことは出来ないんですけれども、気分として、われわれの日常生活の中に形あるもの、だから、確固たるものに対して若干の懐疑心があり続けているっていうことは確かな事だろうと思います。それで私は、それは意外とフィンランドの、私が感じている特有のですね、デザインの=カタギ(形)=メランコリーっていうものと非常に深く関係をしているだろうというふうに考えます。 今日、スライドを使いながらお話ししたいのは、まあそういうことだけではなくて、やっぱり、現代のわれわれの生活の中、今の中に、新しいタイプの遺跡あるいは廃墟っていうものが出現していて、それの問題を考えずに、特に建築デザインあるいはデザイン一般を考えることはなかなかできにくいのではないかということです。静けさという問題は、われわれにとって、要するに、廃墟を目の当たりにした状態。もう少し具体的に言いますと、例えばニューヨークの9.11で出現してしまった廃墟、広島の原爆で出現してしまった廃墟、ドイツで、ユダヤ人収容所の問題で出現してしまった廃墟、それから、今日最後にお話しします東南アジアでも、どんどん出現してきている。廃墟、あるいは遺跡の問題を通して、現代の黙示録っていったらおかしいですけれども、要するに現代の現実の中に廃墟があって、それから当然その中に静けさがある。そういう廃墟の中の静けさこそわれわれが本当に考えなきゃならない静けさじゃないかっていうふうな話をしてみたいと思います。多分、大きい問題に取り組んでますんで、必ず失敗しますんで、あんまり期待しないで聞いていただきたいというふうに思います。じゃ、ちょっと画を使いながらお話しします。 ![]() ![]() これはバイオンという遺跡です。この遺跡自体が問題ではなくて、今日問題にしたいのは、その壊れ方、そういうものをちょっと問題にしたい。これはアンコールワットの遺跡で、有名な写真なんですけれども、要するに、東南アジア、アジアの一般的な地域では、だいたい自然の力が強すぎて、要するに、森と湖なあんていうスタティックなものとは違い凶暴なエネルギーを持っているんですね。それで樹木が遺跡を食い尽くしていくというような現実がございます。日本においても木を湿気が腐らせるという、そういうところもあるんではないかというふうに思います。これは恐らく北の国フィンランドから来られた方々には、ちょっとこういう風景はフィンランドにはなかなか見られない風景だと思います。 ![]() これはドイツのユダヤ人収容所のブッケンバルト、ワイマールのブッケンバルトっていうところの廃墟、それで、これもある意味では現代のです。 これはユダヤ人が収容されたところですね。これが全部遺跡として残されている。収容所全体がこういう廃墟となって現れているわけで、ただ、要するに人々がこれを廃墟として保存しなきゃならないっていう決意、これはまあ大きなデザインだったと思いますけれども、こういう現実というものをわれわれはやっぱり見ていかなきゃいけないだろうというふうに思います。 ![]() ![]() ![]() ![]() 先ほど見たストゥーパは、ポルポト時代にはポルポトが司令部にしていたというようなところで、宗教施設も変転が非常に激しいんですね。そして、ここに今「ひろしまハウス」というものを建てています。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() これが出来上がったらこうなるだろうという姿です。まあ、多分未完のままでいくでしょうけれども。やっぱり僕は、広島が五十年前に壊滅したその瞬間には、凄まじい静けさがあったと思います。 ![]() ![]() |
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