Since 1953

(GK50年の歩み─1.GK誕生/1953〜1959)

焼け野原を照らす夕焼けの変わらぬ美しさは、その荒廃のなかにあって、若きデザインの志士達に、取り戻さねばならぬものを気付かせてくれた。戦後の荒廃の中からの生活の復元と進展の1950年代。これからは工芸にかわるインダストリアルデザインを、と唱えた東京芸術大学の学生のグループは、主張を理解して下さった故小池岩太郎助教授(当時)の名を冠し、Group of Koike =GKとして出発。時に1953年。「美の民主化」「モノの民主化」を目指し、インダストリアルデザインの使命を全うすべく、その道を歩み始めた。



東京駅前広場提案
1953年

東京芸術大学小池岩太郎、福田良一教授の指導のもとに、芸大在学中の栄久庵憲司、柴田献一、岩崎信治、伊東治次が参加、グループ結成の契機となる

 草創期のGKがデザインコンペに勝ち抜いていった原因。それは常に課題に対して「本質とは何か」を問いつめるデザイン創造の姿勢にあった。「モーターサイクルとは何か」「醤油さしとは何か」「───とは何か」の問いは、モノの哲学であり、美学であり、価値の学である。

Hi-Fiプレイヤー
日本楽器製造(株)
1953年

ヤマハ、ハイファイシリーズのプレイヤー

Hi-FiチューナーR-3
日本楽器製造(株)
1954年

ヤマハ、ハイファイシリーズのデザイン。コマーシャルなアメリカ調デザインが謳歌していた時期に正統的なデザインアプローチを試みて製品に気品を求めた

 皆でよく議論し続けた。気が付くと朝を迎えることしばしば。広く心を開く。多くの知恵を集める。深く想いを巡らす。創造集団にあってその意味するものは、激しい思いの交感である。熱い心情の共有である。モノづくりを通じて、次代の生活の新しい風景をもたらすために。GKグループの組織創造力(Organizational Creativity)が形成される源が、ここにあった。


椅子
1953年

栄久庵憲司、新制作派点に出品、入選する
テーブルも同時期のもの

オートバイYA-2
ヤマハ発動機(株)
1957年

YA-1の後継機種として登場したYA-2は、走りっぷりも乗り心地も大きく進歩した。モノコックフレームを基本とした流れるようなラインで軽快感を表現したというデザインが認められ、Gマーク制度第一号のグッドデザイン賞受賞となった
同年に発表されたYD-1とともにその斬新なデザインのオリジナリティが高く評価された

留学壮行会のスナップ
高田馬場「レストラン大都会」にて
1956年

栄久庵憲司、伊東治次、JETRO派遣デザイン研究生として米国アートセンタースクールに留学、アートセンターの表現方法を導入する

 これからは改めて、海外に学ばねばならぬ。多くの知恵と技術とそして、新しい視点を新生日本の糧としなければならない。強い決意を胸に秘め、米国アートセンターカレッジへと旅立つ。


公衆電話ボックス
日本電信電話公社
1953年

電話ボックスデザインコンペディションにおいて、GKのメンバーの一人、逆井宏が第一席を受賞した作品。この電話ボックスは、実際に作成されて全国に設置された
白い本体に赤い屋根がのせられていたことから「丹頂鶴」の愛称で親しまれた

婦人用自転車・クイーン号
丸石自転車(株)
1955年

この写真は『国内及び海外のグッドデザイン展』(主催:発明協会、国際デザイン協会)に出展されたときの様子

オートバイYD-1
ヤマハ発動機(株)
1957年

当時の常識(ティアドロップ形状が普通だった)を破るタンク形状と、そのタンクに施した「栗毛の馬」からイメージされたマルーン色。その独特な形状は「文福茶釜」と呼ばれ、親しまれた
GKは、前年より着手したこのYD-1以降、新機種の企画に基本仕様時点より参加し、ヤマハデザインポリシー確立に協力する

 新たな時代の萌芽を敏感に感じ取ること。ものづくりを通じて力強い未来を切り開いていくこと。それこそGKの使命と心得て昼夜をわかたぬ努力を重ねる。生まれ変わろうとする社会の要請に応えるべく、GKはその歩みを休めることはなかった。


第4回毎日工業デザインコンペティション特選1席受賞(汎用モーター)
1955年

その他、数多くのコンペに積極的に応募を続け、多数の賞を受賞。これらの活動がGKの存在をひろめる結果になった

Our Cover Artist
『工芸ニュース』(1956年8月号)より

工芸ニュースの表紙作家紹介にのった当時のGKグループのメンバー


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