基調講演

今、なぜ静けさなのか
島崎 信  日本フィンランドデザイン協会理事長 / 武蔵野美術大学名誉教授


Dear Friends! Ladies and Gentolmaen. On behalf of boadmenbers of Japan Finland Design Association, I wish to express my sincere gratitude to all of you to particepating our seminer, here in Tokyo. Thank You and Welcome.

 さて、今ここに、日本フィンランドデザイン協会のフィンランド側のボードメンバーと、日本側のボードメンバーがつどいました。2000年の6月、ヘルシンキの白夜の下での第1回理事会でのディスカッションを基点として、2001年4月、東京の満開の桜の花の下での討議。そして、2002年2月の北極圏ラップランドの雪と氷の中での第3回理事会と、その時々の想い出と意見の展開を鮮明に思い出します。そしていずれの場でも一貫して、「静けさ」をテーマにさまざまな面からの発見と進展を重ねてきました。

 私達が「静けさ」、とりわけ「静けさのデザイン」をテーマとしたのは、20世紀のめざましい文明の発展、特に20世紀後半の50年間の生活環境の変化における、プラスとマイナスの様々な事柄についての問題意識が発端にあったからでした。
 20世紀に創りあげた文明のすばらしい果実を否定するものではありません。しかし、そこには人間個人と、その社会が持ち続けてゆかなくてはいけない、謙虚でひかえ目な、手放してはいけない知性と感覚を、ともすればないがしろにしてきたことへの反省がこめられています。しゃにむに足早に、進歩の名の下に進めて来た時代と自分達を、振り返り見直してみることの必要性が、多く語られてきました。 それは自然への畏怖であり、環境の変化への深い怖れにもつながっていました。 話題を重ねる内に、フィンランドの人々のもつ、それらに関する感性と環境について望む姿は、我々日本人の抱いてきた想いと文化とに、驚く程重なり合うものを感じました。

 文化というのは、地域固有の特徴を持っているものです。気候、風土、民族などといったさまざまな要素が複雑にかかわり合って、醸し出されたのが文化といえるでしょう。ですから、私は異文化を理解するときに、必ずその国が位置している所を確認します。日本は、北緯45度30分以南に位置する南北に長い国です。フィンランドも南北に長い国土を持ちますが、北緯59度30分以北から北極圏にまで到達しますから、気候、風土はずいぶん異なります。
 しかし木が多く、水が豊かであるという点では、日本とフィンランドはとても似ています。そして私が思うには、日本もフィンランドも他国から伝来してきた文化の「行き止まり、溜まり」に位置している。ということがもう一つの共通点になっているような気がします。
 日本の文化は、大きく分けて三つの道すじから入って来て形成されてきました。一つはメソポタミアから発した文化がユーラシア大陸を伝播し、朝鮮半島を経て対馬から入って来たルートです。日本の文化は中国からの影響が強い、と一般的に言われており、それは事実ではあるのですが、実は、朝鮮半島の要素が更に加えられた中国文化を取り入れているのです。このことは意外と見過ごされがちな点ではないかと思います。 二つ目のルートは、中国から直接伝わった漢民族の文化です。これは朝鮮半島経由ではなく、遣唐使などが直接中国に行って持ち帰った生の中国文化です。
 もう一つは、黒潮の流れが運んだ南方民族の文化です。これは、潮流を利用して行き来があったであろう、海の民が船を操ってもたらしたかもしれないし、島崎藤村が謳った「椰子の実」のように、浜に流れ着いたものから伝えられたかもしれない文化です。

 フィンランドについてのお話はソタマー会長にお願いするとして、フィンランドもユーラシア大陸から伝播した文化を起源とします。民族も同様とされています。スウェーデンとロシアという二つの大国に挟まれて、強い影響を受けましたが、背後には北極圏が控えているため、フィンランド文化として熟成されたものの「行く先」はなかったのです。
 日本も三つのルートから入ったものが日本古来の文化と混在して熟成したもののその先に伝播する「行く先」がありませんでした。日本より先の道筋は、広い大平洋に隔てられていたからです。こうした「行き止まり、溜まり」の環境は、葡萄液が年を経て熟成してワインになるような働きを持っています。単なる「通過点」でないため、時間をかけてゆっくりと、その国独自の性格を帯びていくからです。ただし、上手くいけば上等なワインが熟成されますが、悪くするとお酢に変わってしまう危険性もはらんでいます。現在の日本文化がどちらの状況にあるかは、皆さんのご判断にお任せしましょう。ここで、150年前日本の近代化まで待ち続けていた、日本の文化と感性に目を向けてみたいと思うのです。

 日本は、温帯気候に属しています。しかし地域によっては亜熱帯気候に近い風土の所もあります。そのため建築様式は東南アジアの形式に近いものとなりました。家が開放的な造りのため、庭という存在は、家の延長として考えられてきました。庭は室内の一部であり、同時に室内は庭の延長であって、境界線の意識がないのです。
 伝統的な日本建築の特徴のひとつは、自然素材を使い、雨をしのぐための軒の出が長いことでしょう。この軒下の空間は、庭から見れば室内の一部であり、室内から見れば屋外の一部という、両面性をもったはっきりとした空間の区切りの意識のないものでした。

 先ほど日本人の感覚では内と外がつながっている、と申し上げましたが、それは空間の広がりとして捉えた場合で、実は目には見えない方法で空間に区切りをつける手法をもっていました。その区切りを持った特別の場を「結界」とも呼び、独特な空間意識を形成しています。ごく自然に見える「止め石」という石は、そこにあるだけで、そこから内に入ることを押し止める役割を担っています。
 日本では家を建てる前の儀式で「地鎮祭」というものがあります。それまでごく普通の空き地に竹が立てられ、その竹が注連縄で結ばれると、その瞬間からそこが神の降下する祭場という深い意味をもった空間に変わります。
 「止め石」や「地鎮祭」は、正に約束事の社会が機能していることの表れです。押し入ってしまえば入れるほどの境界が、知性と教養を持って意味を理解する者の間では、越してはいけない禁忌の一線となっているのです。丁度トラック競技のラインも、ルールを知る人にとっては越えてはいけない、重い意味のあるのと同じかも知れません。

 日本が、その風土によって育まれた「自然に対する感覚」は、自然は人知を越えたところに存在するという認識をもって、その脅威を知っているところからはじまっています。圧倒的な力を持ち、避けることのできない台風、地震や強い降雨は、日本人に自然と対峙することがいかに無力であるかを知らされていたのです。つまり、日本人は長い間、自然を征服するのではなく、自然の力を受け入れながら、上手く共生する方法を選んで生きてきたのです。ここが、自然に向かって対峙するという一般的な欧米の「自然観」との大きな違いだとも考えられます。

 人類が最初に造った住まいは、横穴式の家でした。しかし横穴に固執すると場所が自由に選べません。そこで次の世代の人類は、竪穴式住居を作ることで、住む場所の選択の自由を得ます。しかしやはり住む場所は水のあるところでなければ、生命を維持することができませんでした。水は直接人の命にかかわるだけでなく、動植物を豊かに育み、人類に食物を与えてくれたのです。
 水が豊かな所には、また木が育ちます。木という素材は実に人間的な素材です。人間の力で加工がしやすく、柔軟な強度を持ち、多孔質な素材は人の皮膚感覚に近いため親近感を持つことができます。 一般的に日本は木の文化、欧米は石の文化、と捉えることがありますが、私が言うまでもなくフィンランドは素晴らしい木の文化を持った国だと思います。

 私が何度か使った「欧米」という表現に誤解を避けるため付け足しますと、フィンランドはこの一般的な欧米の範疇には入っていないと思っています。寒冷地ゆえ、伝統的なログハウスをはじめとする建物は、確かに自然の脅威から身を守るものとなっています。しかしあまりにも圧倒的な自然の厳しさがフィンランドの人々に、自然をありのままに受け入れる謙虚さを与えたのだと思います。
 この自然に対する感覚が、日本とフィンランドを引きつけ合う要因なのではないでしょうか。フィンランドもまた、自然との共存と観察、そして吸収する力を育んできたのです。

 20世紀初頭までの時代には、装飾の少ない造形のデザインは、軽視されていました。人間の神経を刺激するような色や形、構造を持つものが「よく造られた」ものであるとして、高い評価を受けていました。しかし近代になって、無駄をそぎ取ったデザインが実はとても良く考察されたものであることが、人々に理解されてきました。生活の中にある模様一つとっても、その単純さゆえに実は近代性を持っていたことが、再発見されたのです。主張が強いだけの造形ではなく、受け手、使い手が生かされる造形は単純、控えめな、静かなものの中にあることに気がつくのです。

 自然と共存し、観察したものを吸収するという姿勢は、「静けさ」を意識する感性を生み出しました。ここで言う「静けさ」は物理的な無音の静寂を意味していません。もっと根源的な静かさ、感性の根幹をなす部分のことを指しています。この「静けさ」こそが、自然を凝視することを可能にし、未来への思想と新しい造形の在り方を確認するきっかけとなるのです。
 この感覚は、素材に対する関心にもつながりました。人間の持つ繊細な五感は、正に適材を適所に用いることを求めてきたため、日本の漆塗りの木の器や薄い磁器の盃、ざっくりとした陶器の土鍋など、日常に美しい日用品を使う文化を育んできたといえるでしょう。
 人間は本来、音に対する独特の感覚を持ち合わせています。まったくの無音状態ではなく、風が葉を揺らす音、頬に感じる風といった、自然が生み出す音に包まれ、その音に耳を傾けて、自らの感性を呼び起こす術を持ち続けてきたのです。このような体験と伝統が、遠くにいる人や、物かげにいる人の気配をも感じるといった、敏感な超感覚的な神経をも生み出してきたのです。

 「静けさ」の中で、人は初めて自分自身と向き合うことができます。静けさは、自らの心と対話を造り出します。そして、自らの心の底にあるものを自覚し、覗き見ることが出来ます。静かに自分自身と向き合うとき、自分の持つ五感の敏感さを最大限に発揮することができるのです。多弁ではなく寡黙でもなく、選び抜いた短い言葉で豊潤な内容を伝える。声高を避けて、耳をそばただせる低い言葉で伝える。その言葉は他者の心の片隅に重い響きとなって納まってゆくのです。
 20世紀の発展の経験を正面から見据えた上で、21世紀での新しい「静けさのデザイン」とは何か、ということを考えてみることは必要なことではないと思うのです。そしてそれは、もう一度自然と向き合い、自然との共存を見直すところからもスタートできるのかも知れません。一人の人間として自らの深いところと向き合い、思索的になりうる、根源的な静けさの場を、今、求めたいと思います。

 今日の「静けさのデザイン」シンポジウムで多くの方々からの活発な意見と提案がかわされることを願って居ります。そして、このシンポジウムからこれからのデザインの理念と行動の指針のひとつが生まれることを期待して、私の話を終わります。 有難うございました。



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