記念講演

静寂のかたち
後藤 栄山 師  臨済宗 妙心派 海禅寺


 私はご覧の通り、佛法を信じ、禅の教えを行じている一修行者であります。
 毎年八月にフランスのカトリック坐禅センターへ参りまして、三十五人のメンバーと共に一週間の坐禅をし、その指導をしております。皆さんもご承知の通り、フランスではレストラン、香水、煙草にも「禅」というレッテルを使用しています。昨年、メンバーの一人から、フランスでは今、「禅をする」という言葉が流行していると聞かされました。「禅」という名詞が、「禅」という動詞として使われているということです。
 それでは「禅をする」ということは、どんな意味かと申しますと。実際に坐禅をするわけではないのです。「静かな時間をつくる」、「静かな時間を過ごす」ということの代名詞なのです。
 しかし、このような禅をするという言葉が使用されるのには、それだけの理由があるわけです。現代人は、毎日の生活の中で文明という名のブルトウザーによって自然破壊と環境汚染、情報過多による精神的混乱、人間関係の対立等によるストレスが蓄積されております。それらからの解放の生理的要求と心の防衛手段ではないかと思われます。

 皆さんの国であるフィンランドには、一度も参っていませんが、水と雪と森と白夜の大変美しい国と聞いています。環境については、特別に「静かなデザイン」を考える必要はないでしょうけれど、静かなる形という外面的なもの、例えば都市のデザイン、建築のデザイン、車のデザイン等は皆さんが専門科ですが、わたしは、内面的な静かなる形について申し上げてみたいと思います。
 人間が生きるためには、水が必要であります。その水は、地面から湧いて出て川に流れ海に入る。海から蒸発して雲となり、やがて雨となって降ってくる。このような循環作用によって人間だけでない、動物も植物も生かされているのである。ところがこの循環作用の浄化がおかしくなってきた。文明という名の下に、水や空気が汚染し人工地獄を作りつつある。大量生産と大量消費という結果、自然に還元するサイクルが時間的に不可能になりつつある。
 又空気にしても、我々は絶え間なく呼吸している。空気なくしては一寸も生きることは出来ません。面白いことに、ここに沢山の人がいて自分が吸う息も呼く息も皆さんの身体を通して出入りしている。あの人は好きだから、あの人は嫌いだからと云ってその空気の選択は出来ない。我々は、人間同志だけではない、自然と共に運命共同体なのである。
 人間の行為は、その個人が認識すればすぐにも修正できるが、自然のサイクルは、そう簡単に停止も修正も変更することは出来ない。人間が自然を征服しようとしてきた歴史は、近い将来自然が人間に報復する時が来るに違いない。二十一世紀はこの危機を如何に乗り越えて行くかが、人類最大の課題になるのではないか。  この東京という大都会に生活する私達にとって、年毎に静けさの空気がなくなりつつあります。文明というものは、騒音の代名詞ではないか。
 もしも、デザインというものに、文明的要素と文化的要素の両面があるとするならば、現代に於けるデザインは、有効性実用性機能性の追求に走り、文化的な感性の面が忘却されているのではないか。
 そこで、「静けさの形」というテーマの提言である。この静けさの形を禅文化という側面から具体的に考えてみたいと思います。

 禅の歴史は、インドに於いて佛陀の見性体験から出発し成立したものですが、インドに於ける禅は、樹木の下で坐禅する、静的な瞑想型のものでした。そして禅は、達磨大師に依ってインドから中国に渡り、中国の儒教や道教の影響により、動的な日常的なものとして形成されました。更に日本に於いては、日本の風土を生かして禅が文化型として発展しました。それが、茶道であり能楽であり俳句であり武士道であります。
 つまり坐禅という宗教体験が根底となって各分野にデザインされ、日本人の精神的な支柱として日常化して今日でも生きています。
 皆さんは毎日、コーヒーか紅茶をお飲みになる。日本人はグリーンティを飲む。グリーンティは元々中国からゼンマスター栄西が持参して日本に於いて栽培したものですが、本来は薬だったのです。
 茶についてこんなエピソードがあります。インドから中国に禅を伝えた達磨が、ある時坐禅をしていたが眠たくて眠たくてたまらない。そこでこの眼が邪魔であると思って指で自分の眼をえぐり取って大地に叩き付けたところ、それが茶の芽として生えたというのです。それから茶を目覚ましとして服用することになり、禅寺ではセレモニーとして、茶を飲むことを毎日の行事としています。
 この作法を、千利休という人が茶の美学として考察したのが茶道というものです。千利休という人は、自らゼンマスターに就いて坐禅の指導を受け、非常に美的感覚の鋭い人でありました。
 茶道に関する必要な、茶室・庭・茶碗から茶杓に至るまで自ら創作しました。それぞれの作品には日本独特な美的要素があります。茶室というものは、外部との縁を完全にシャットアウトした次元の高い世界です。その建築構造は、キリスト教会と同様に音の断絶の工夫がなされているということです。
 そして利休は、茶の道として根本的四つのスローガンをあげました。和と敬と清と寂であります。その要点を申し上げます。
 第一に「和」とは、調和のことで、そこに感触の和、香気の和、光線の和、音響の和、色彩の和があり、これらが茶室の中に凡てがセットされている。そこに人生の作法としての掟が存在している。
 第二に「敬」とは、人間同志の自我の主張である争いの否定である。お互いの個人尊重である。人間関係だけではない、日本は春夏秋冬という四季の変化に恵まれ、その折り折りの風情とか食物に対する共通感覚を発見し一輪の花でも、月を見ても、一滴の水にも計り知れない大きな力に対する畏敬の念をもって自然の作法による生き方である。
 第三に「清」である。清潔ということであり整頓の意味であるが、あるべきものがある場にあるということである。清きの反対語は汚れである。私はよくフランスの坐禅メンバーに教える。肉体の汚れはどうする、皆、シャワーを浴びるという答えがある。それでは心の汚れはどうする、無言である。坐禅こそ心のクリーニングであると教える。坐禅をしてみよ、猫がネズミを捕らえる目つきが、マリヤ様の顔になる。茶の道では、花を生け、香を焚き、水を撒いて清浄な世界を演出するのである。
 第四が「寂」の世界、今日のテーマの静かなる形のことである。寂の意味は、唯静けさだけではない。英語やフランス語に翻訳出来ないが「幽玄」とか「わび」「さび」という日本独自の美意識である。佛教に於ける、悟りの世界、涅槃の世界である。つまり一切の苦しみ、悩み、不安が消えたや安らぎの世界である。和敬静は、寂の世界の為のプロセスに過ぎない。千利休は、茶の道を通して悟りの世界に誘導したのです。
 私は、坐禅体験という聖なる空間から、茶道という美の空間のデザインを申し上げた。
 そこで、坐禅というものを心のデザインとして考える場合、そこに静けさとか、調和とか、平安とか、自由と云ったカテゴリーが有るわけで、これは実際に坐禅をしなければいけない。そこで坐禅の実践方法について申し上げたい。

 今日、日本に於ける佛教は、臨済宗曹洞宗天台宗真言宗浄土宗日蓮宗等十三の宗派に分かれています。この十三の宗派というのは、佛陀と人間との関係、そして死んでから天国を求める立場と、現在生きているところを天国として認識する立場、これらについての十三の解釈論であり、その目的実現の方法として、三昧に入るために声明と沈黙という二つの実践方法論がある。
 声明と申しますと、浄土宗の場合は、阿弥陀佛の名号を一心不乱に唱える。南無阿弥陀佛では舌を噛むから、「ナムアミ・・・・」と省略して、繰り返し繰り返し念佛三昧に入る、これが極楽へのパスポートでもある。
 法然上人は、一日に百万遍唱えたという。別段計算したわけではないでしょうけれど、水を飲む時でも、トイレに入っている時でも、寝ても醒めても「ナムアミ・・・・」である。
 ここに念佛の修行者である空也上人の像がある。念佛を唱えるということは、このように口から阿弥陀佛が出ている。念佛の造型美術として最高のものではないか。この像を見て見落としてはいけないことは、この像を造った康勝という佛師が自分自信が念佛を唱えたその結晶であるということだ。
 又、日蓮宗の声明は、法華経を心の拠り所として、法華経を信仰するというスローガンから「南無妙法蓮華経」と題目を唱える、そして題目三昧に入る。
 同じ声明でも、この両者には違いがある。よく聴いて下さい。
   「ナムアミ・・・・」
   「南無妙法蓮華経・・・・・・」
語尾のイントネーションが一方は下がり、一方は上がっている。この声明を続けていると心理的に、念佛の方は心が平穏になり、題目の方は躍動的になる。
 恐ろしいもので。法然上人のような念佛の修行者の人相は目尻が下がっている。大変柔和な顔をしている。これに対して、日蓮上人のような題目の修行者の人相は目尻が上がって大変に戦闘的な顔をしている。
 修行というものは、このように人相が変わるまでやらなければだめである。これは宗教家だけのことではない。芸術家には芸術家の顔があるように、どこの分野でもそれぞれの分野の顔というものがある。
 そこで、心になんとなくストレスが貯まり落ち込んでいる時は、「南無妙法蓮華経」をやればよい。その反対に、心に落ち着きがなくイライラしている時は、「南無阿弥陀佛」を唱えるのがよい。自然に心の平衡を保つことができる。是非とも実験されるとよい、これは精神衛生学で、躁鬱病で薬を飲むより副作用もない。但し、症状の逆をすると病が深まるからその処方箋を誤ってはいけない。
 この声明の修行に対して、沈黙の修行が坐禅であります。ここに鑑真という僧が坐禅をしています。坐禅とは、佛陀と同じように禅定三昧に入り見性し、佛陀と同じ心のハタラキを体験する立場であります。
 そこで、坐禅の方法を申し上げます。坐禅の基本は、身体を調え、呼吸を調え、心を調える事である。
 先ず、身体を調える。先ず富士山をイメージして下さい。坐禅スタイルである。飲食を調節する、食事は少な目がよい。酒や煙草は止める。睡眠もあまり取りすぎも不足もいけない。特に目のおきどころですが、目を閉じると眠くなったり物事を考えたりするので、半眼で一メートル前方の下を見落とす。目を開けると、視覚によって心が動揺するからです。丁度、半眼というのは、光線が夕暮れのように薄明かりです。これが一番心が落ち着く条件でもあります。よく重病人の為、病室内をカーテンで薄暗くするのは、明るすぎると刺激が強すぎるし、暗くすると不安と恐怖心で、患者に負担がかからぬように一番適切な対応であるからです。
 次に呼吸ですが、健康な人は一分間に十五、六回ですが、坐禅をすると、それが十回、そして五回と呼吸の間隔が長くなる。そして、吸う時は、この宇宙を腹の中に納めるように、呼く時は、自己がこの宇宙の中に溶け込むような気持ちで、呼吸を自然にすればよい。
 次が心を調える、これが仲々難しい。坐禅は思索ではない、判断思考停止である。心が白紙になり、零になるレッスンである。丁度濁った水をコップの中に入れる、暫くすると下の方にヘドロが沈殿して上の方が透明になる。その透明体の水の世界が佛の心であり神の心でもある。その心に立ち帰るのが坐禅の世界である。
 ここで坐禅を集約してみますと、哲学的に云えば、主観と客観とが一ツになるということである。私が坐禅するのではない、坐禅が坐禅をするということである。デカルトは、「我思う故に我あり」と云ったが禅は、「我思わず故に我なり」の立場である。
 心理学的に云えば、心の中は神と悪魔との葛藤である。しかし正しい坐禅をすれば、丁度皆さんが日本に来る時、ジェット機が成層圏を通過したあの雲一ツない状態になればよい。生理学的に云えば、身体が軽くなり、頭の中がスッキリする。そして頭寒足熱といって健康のためによい。
 政治学的に云えば、坐禅というものは、政治的イデオロギーもなければ、宗教的カラーもない。純粋な修行方法である。
 経済的に云えば、特別な道具が要らないから費用がかからない。何時でも何処でも誰にでも出来る。
 しかし、世界の宗教を見ますとどの宗教に於いてもメヂィテーションが行われている。これは世界の宗教共通の修行方法で、勿論坐禅もこのメヂィテーションというカテゴリーの中に含まれている。しかし、実際にこのメヂィテーションの内容を点検すると、全く千差万別で色々な解釈が行われていることも事実であります。
 我々臨済宗に於ける坐禅には、独参というシステムがあります。これは、ゼンマスターが一人一人個別にその坐禅の内容をチェックする機関であります。恐らく世界の宗教の中でこのような機関があるのは、臨済宗だけではないでしょうか。
 独参というものは、修行者に公案という禅の問題集を与えて、佛陀と同じ坐禅体験へ誘導する手段であります。要するに、個人としての宗教体験というものが、自己陶酔や自己満足や狂信的なものに陥ることを避けて、どこまでも普遍的な世界の証しのための裏付けを確認する方法であります。
 坐禅というものは、決して木や石のように只ジート動かずにしておればそれで良いとするものではありません。そして又、禅に於ける無の体験が神秘的なもの虚無的な世界と理解している人がありますが、禅は決して神秘主義ではありません。神秘的なものを現実の世界に可能性として実現する創造する教えであります。

 ある日、ゼンマスター為山が昼寝をして、ふと目を覚ました。そこに三人の僧が通りかかったので、「今、私は昼寝をして目が覚めたところだが、お前達は私がどんな夢を見たか当ててみよ。」と質問された。すると一人の僧は、早速洗面器に水を入れてタオルと共に為山の前に差し出した。次の二人目は、お菓子とお茶を差し出した。そして三人目は、老師の背中に廻ってマッサージを始めた。老師は大変に喜ばれて、「お前達はよく禅の教えを体得しておる」と褒められたという。昼寝をして目が覚めて、顔を洗い、菓子を食べて茶を飲み、そしてマッサージを受ける。こんな合理的なライフスタイルこそが禅の世界である。この中に神秘的なものは、欠片もないではないか。
 以上のように、坐禅は呼吸の宗教であり、沈黙の宗教であります。本日のテーマが「静けさの形」であるならば、坐禅こそ静けさの形の極地というべきではないでしょうか。
 坐禅は、沈黙の宗教であります。しかし、沈黙を守るというのは大変難しいものです。
 昔四人の僧がおって、今夜六時から明朝六時まで無言の行をする、沈黙の修行を約束して、一本のローソクを中心に坐禅を始めました。二時間程してローソクが燃え尽きて、部屋の中が、真っ暗になった。そこで一人の僧が「誰かローソクを持ってこい」と発言してしまった。この僧は発言して沈黙を破り失格である。するともう一人の僧が「こら只今は無言の行の真っ最中だ」と発言して、この僧も失格である。更にもう一人の僧が「お前もものを言っているではないか」と言ってこれも失格である。そして最後の一人が「最後まで発言しなかったのは私だけである」と言って全員が失格したというエピソードが、七百年前の沙石集というテキストに書いてある。
 これは、無言の行という話ではない。人間のあり方の問題である。人間というものは他人のことはよくわかるが、自己自身のことはよくわからないということである。目を外に向けるのではない、目を内に向けよという教えである。
 本来、坐禅をする場所は、静かな処を選定しなければいけない。従って坐禅堂は山の中に造られた。実際に坐禅していると、人工的な音例えば車の音、テレビの音、人の声等は非常に耳障りで不快感があり、三昧に入る障害となる。ところが、自然の音、花鳥風月の音は非常に爽快感があり、三昧のため力となる。ここに、明恵上人の坐禅の図があります。頭の上に鳥が鳴いています。
 花鳥風月こそ、禅の歴史の上に於いても見性体験の大きなきっかけである。佛陀は星を見て見性し、霊雲は一輪の桃の花を見て見性し、香厳は石が竹に当たる音で見性した。
ゼンマスター道元は、
   峰の色 渓の響きも みなながら
      わが 釈迦牟尼の 声と姿と
と歌っている。山の景色を佛陀の姿と見て、谷川の流れの音を佛陀の説法の声として聞くというのである。佛陀は二千五百年前に出現し、八十四歳にして死んだが、現在でも谷川の音として絶え間なく説法していると受け止めることが、道元の見性体験の告白でもある。
 日本文学の中に、俳句という十七文字で表現する日本独自の詩形がある。芭蕉という俳人がいた。彼もゼンマスター佛頂から禅の指導を受けた人である。日本中を旅して数多くの名句を残しているが、その根底に禅的な宇宙空間的意識があるように思われる。立石寺という所で、
   閑けさや 岩にしみいる 蝉の声
というのがある。フィンランドに蝉がいるかどうか知りませんが、蝉は、ミーミーミーと鳴きます。立石寺というのは山の高いところにある、シーンと静まりかえって何の物音もしない。そこに蝉が、六月の頃でしょうか、ミーミーと閑けさを破っている、宇宙一杯に鳴いている。音というものは静けさの反対用語であるけれども、蝉のミーンミーンという鳴き声が微粒子となって世界中に滲み通っていく。まさに閑けさという観念のマクロコスモスと蝉の声という耳に響くミクロコスモスの対比を表しているが、蝉の鳴き声が岩に滲み入るのでなく心に滲み入るのである。面白いもので蝉の声が、一層の深い静けさの感動を呼ぶのである。静けさと音との反対概念が、逆に同一となって新しい世界が開かれている。
 更にミクロとマクロということについて考えると。部屋の中を清掃する、ミクロ的に考えれば、電気掃除機の袋の中にゴミが一杯集中しただけで。これをマクロ的にみれば、地球上のゴミが散らばっているのを一ヵ所に集まっただけでゴミが減ったわけではない。それでは、清掃することが無駄事がというと、人間の精神生活の上からみて決して無駄事ではない。
 大都会の周辺にベッドタウンが有り、沢山のマンモス団地が建っている。ミクロ的にみれば、人間が住む高層建築であるが。マクロ的にみれば、高度三千メートルからは、丁度公園墓地の墓石と同じである。両方とも石のような堅いものであるから、石の中に住むのも、石の下に住むのも時間の問題である。人間はこのようなことについて無関心で生活しているのです。
 碧巖録という禅のテキストの中に、「天地と我と同根、万物と我と一体」という悟りの世界を表現した言葉がある。いわゆる自己の立場を抜け出し現象界を抜け出して、絶対の世界、永遠の世界に入ることを意味する。これは、自然というものを対照的に捉えるのではなく、主体的にモノを見、モノを聞く立場である。このような自然と自己との交わりこそ普遍的な摂理に随う生き方である。
 昔の日本人は、酒を飲むのにも、盃に酒を入れてその酒に月を映して飲んで楽しんだものである。月を飲むのである、腹の中に収めるのである。
 ワインを飲めば、酔いの世界に入るではないか。坐禅をすれば、神の国佛の国に入ることができるのである。
 坐禅は、あくまで現実世界の中にある。最後に、禅語に「答処は間処にあり」という。凡て問題の答えは、問題の中にあるということだ。この方程式こそ諸問題解決のヒントであることを申し上げる。

 二十一世紀は、宗教の時代であるという予言があります。しかし宗教が、現代に於けるように過去の遺産として埋没していては、その使命を果たすことは出来ないでしょう。
 私は、宗教は心のデザインであると考えます。佛教もキリスト教もイスラム教も皆、人間の生き方死に方のデザインをしているのではないでしょうか。しかし、人間の現実の世界は、神と人間、自然と人間、精神と物質等対立的な現象として展開していますが、本来この対立概念は、水と波との関係で水を離れて波はなく、波をはなれて水はないように本質的には一種の二義性であります。そこで、自己同一性という根源に立ち帰るレッスンが坐禅であります。
 以上。内面的な心の静けさの形の原形が、坐禅であります。この形を根底として、二十一世紀の外面的内面的両面のデザインが構築されますことを期待して講演を終わります。
記念講演 平成十三年四月四日。



事務局
日本フィンランドデザイン協会 (Japan)
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連絡先 : 株式会社 GKグラフィックス内
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