基調講演

日本文化志向からみた“静けさ”について
栄久庵 憲司  日本フィンランドデザイン協会 会長 / GKグループ 会長


 JFDAのシンポジウムのテーマとして“静けさ”を選んだのは、時代の喧騒の中にあって“静けさ”という言葉のもつニュアンスが、いかにも時代の混迷から精神を救うに適切な言葉だったからである。
 都市の喧騒は文明の利器によってつくられ、自動車や飛行機の爆音は常に一方的だ。生理的にも精神的にも不快を感ずることが多い。しかし自らの求める音は騒音とはいわない。音楽であっても聞く意志のない場合は騒音であって、意志をもって聞けばまさに音楽だ。サウンドレスも自らが求めたサウンドレスは一つの生きたサウンドといっていい。心の底の何がサウンドレスを求めさせたかが重要だ。
 いにしえから“静けさ”という言葉に人は何かを求めている。人は“静けさ”という言葉に依りかかりたいと思うし、また“静けさ”の実体に包まれたいとも思う。それは“静けさ”が快適だからに他ならない。またぼんやり過ごしてきた自分の姿に倦怠が感じられ、少しばかり冷やかな“静けさ”で自らを包むことでぼんやりした自分を凝集させ、焦点のあったはっきりした自分に対することができる。“静けさ”は創造されるもので、決して与えられるものではない。
 日本の伝統である風鈴の考察をしてみよう。どの風鈴も中々音が美しい。凹状のガラスの中にぶらさげられた金属片がガラスにあたると美しい音を発する。音は確かに美しい、だがそれだけだ。ところが軒に吊らして自然の風の流れにまかせて、紙片のついた金属片がガラスにあたって発する音は全く別の音色である。思い出したように鳴る風鈴の音は風の心を伝えてくれる。風のかたち化である。風の心を伝えてくれることによって何もない空間が活き活きしてくる。単なる無音の環境は人にある種の圧迫感を与えるが、空気の動きで風鈴が美しい音を発することで人の心をなごやかに包んでくれる。ここで気持ちがほぐされ、暫し愚かしき自我を忘却する。いわゆるほっとした心の“静けさ”に浸れるのである。
 風鈴には色々な使い方がある。その一つに汗のにじむような夏の夕に鳴る風鈴の音は、暑さで散漫になった精神を瞬間引締め、風の通過を感じさせる。高温多湿の日本の夏を風鈴で楽しむ習慣である。冷気を誘う道具といわれ、デザインの逸品である。金属で造られたものもある。音色は更に高く尾を引くところが静寂さを誘う。風まかせというか自然を音楽化するところが哲学的であり根源的だ。自然と人工の窮極の接触をよくぞデザインしたものである。無名のデザインだが、先達はいいものを残してくれたものだ。だが最近は無臭、無音、無菌時代といわれ、軒先に吊るした風鈴の音がうるさいと撤去を要求されるそうだ。風鈴の存続が心配だ。風鈴の使い方は個々によって千差万別、生活の隙間を発見して知恵よくつきあうといい。天の響きだ。心に平安を与え、人の心は静寂に包まれる。“静けさ”をかもす見事な道具でも、扱い方を間違えないことが肝要だ。
 風鈴は日常的で即効性のある誰にでも効く万能薬のようなものだが、病がすすみすぎて万能薬が効かなくなるように、自動車の騒音や飛行機の爆音のもとでは全く効かない。外的騒々しさばかりではない。人間関係や時代からくる焦燥の念もまた然りである。その場合違う方法で“静けさ”をつくらねばならない、それが坐禅である。
 記念講演で後藤栄山師が見事に坐禅の意味を説明してくれた。群衆の中の孤独という言葉があるが、騒音の中の静けさという言葉も坐禅によって実感できるといいたい。都市の中では騒音を聞くまいと思えば思うほど聞こえる。集中して五感を捨てれば聞こえても聞こえなくなる。それ以上に精神の快感が生ずる。坐禅によって得られる快感は、風鈴のように他動的力を借りずに内的な自らの力によるものだから、多少の訓練は必要だが誰しも可能だと栄山師はいう。

 人間というのは悩み多い生き物である。自らが創った文明の仕組み、その仕組みが生み出す絶叫の数々。自動車、飛行機、電車の騒音。更にはテレビ、ラジオ、選挙の騒音に苦しめられている。それもこれも人間のもつ欲望のなせる業である。精神と肉体の葛藤が宗教を生み、祈りによって心の平安を求めた。キリスト教の教会にしても仏教の寺にしても独特の“静けさ”がある。祈りを支える“静けさ”のかたち化である“静けさ”に身を漬け精神肉体の浄化を試みる。中々有効な装置だと思う。人は常にイライラしている。イライラは全てによくない。人間の欲というものはイライラを生産する不思議な力をもっている。大人は大人なりに、子供は子供なりにある。ぐずっている幼児はリズミカルな音を聞くことで静かな眠りにはいる。よくある風景だ。仏教では磬といって高い音色で尾を引く鳴物がある。仏壇の前に坐ってその磬を鳴らすと不思議とイライラした気持ちが癒えて別世界に誘ってくれる。何遍か鳴らすことでイライラが溶けて、自分の求める魂が新しく創られてゆく極めて美しい音色である。音色が高いが故に瞬間イライラという騒音が凝集され凍結され、新しい精神創造の場がつくられてゆくのである。度々鳴らすことで尾を引く音が凝集した精神を少しづつ溶かしてゆく。

 日本の静けさ発生装置には、音自身を創る装置が多い。内的なる力で精神を安定させるより、道具や装置を使う方が誰にでも効果が発揮できるからである。鼓がそうである。あの引き締まった音色は戦いにおもむく武将達の気持ちを雑念から解放し、純白の一瞬を心の中に構築する。戦いに雑念は不用だ。あの音色のによる“静けさ”が見事に魂の充実をはかり、死しても可なりということになる。もちろん鼓の音はシャープで厳しいだけに様々な表現に使われる。幽玄な能にはなくてはならない存在だ。身の動きの極めて少ない能の動作に鼓は心を与える。それによって能の心はより深いところから発することになる。観客は“動中静”“静中動”のリズムにすっかり酔いしれるのである。

 さて日本の音の中の静けさについて述べてきたが、一碗の茶をすすることで静を得ようというのが茶道である。四〇〇年前、利休という茶人が「和敬静寂」という言葉のもとで築きあげた、“静けさ”を求める極意ともいうべき道である。人を敬い自然と共になる心こそ“静けさ”の求めるところと説いている。一碗の茶をすすめ、心と心が信頼のもとで行き交う素晴らしさを、点前という作法で説いているのである。そし点前を行う装置として茶室は、より早くより効果的に心の静けさを求める空間として創り上げられた人工空間の極みである。
 茶道について述べるには他なる機会をもたねばならないが、百聞一見にしかず実際に経験するのが最も早道である。茶室は“静けさ”という快感を誰もが味わうことができる総合芸術といってよい。建築、工芸、絵画、書道、香道、華道、食道、造園、能楽のすべての総合による人間精神の窮極の目的「寂」、つまり“静けさ”への挑戦といっていい。まさにデザインの総合だ。利休はそれを「和敬静寂」といったのである。

 いろいろと述べてきたが“静けさ”「ザ・クワイエットネス」という日本・フィンランドのデザインチームによって設定されたテーマは、大変奥が深いことが分かった。一生かかって追求するテーマだと思う。日本・フィンランドの両民族にどこか共通の思いがあるのがとてもいい。気分の一致というものであろうか。
*Photo courtesy Frantisek Staud



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