「内なる環境破壊」に答えるべきデザインの力

日本デザイン学会「安全と安心のデザイン力」
デザイン学研究特集号 2008VOL.15-3 より
株式会社GKデザイン総研広島 山田晃三

キーワード:
●自然と不自然
●身体能力の体外化
●内なる環境破壊
●デザイン力の再定義
●安心の本質


 500万年前、人類は立ち上がり「道具」を手にしたその瞬間、自然から切り離されヒトになった。以来、不自然に生きる宿命を負い、ヒトの進化は道具の進化と同義となった。その後の道具機能の発展によってこの地球上に、優勢種としてのヒトが君臨した。ヒトはこの道具を「必要に応じて想像し、技術力をもって完成させる」能力を身に付けた。この長年にわたり積み重ねられてきた能力を「デザイン力」と定義する。

 デザイン力を用いて人類は、生きるための基本欲求を満たしてきた。まずは食べること、寝ることへの生理的欲求。身に迫る危険を回避するための「安全」の欲求。さらに社会に認められ評価されることによって得られる「安心」の欲求を、である。

 道具は、ヒトの生きる能力をより強力なものとしつつ、自然的存在である身体の能力を「体外化」し続けてきた。メガネは眼球の、衣服は皮膚の、クルマは足の能力の体外化である。今では20世紀終盤に獲得した神経系技術によって、時間や方位の感覚はもとより、ドライバーにいたっては危険を察知する能力すらクルマに委ね、記憶力やコミュニケーション能力もコンピュータやケータイへと体外化してしまった。こうして僕らの裸の身体や頭脳は、急激に自然的(動物的)能力を失いつつあるのである。これを「内なる環境破壊」と呼びたい。

 すでに体外化された自らの分身(道具)との間で、確執さえ生まれようとしている。利便性と欲望の追求によって生まれた道具たちがヒトの能力以上に成長し、僕らの不甲斐なさに気づくときが間もなくやってくるだろう。道具はさらに建築空間や都市空間とも一体化する。神経系技術がモノと空間をつなぎ、僕らはつねに空間や都市と交信しながら生きる。自分の存在そのものが、リアルから仮想現実に置き換わっていく。ここまで生き続けてきた自己の在りかを、考えねばならないときがまもなくやってくる。

 「安全」を道具や情報、空間づくりの知恵によって獲得してきたのが人類である。その結果66億もの人類がこの地球上にいま生きている。陸上動物の1/4(体積比)を占めるという異常さだ。地球温暖化が起きようが災害が発生しようが、それをビジネスに置き換える知恵を人類は持ち合わせている。また強いものが弱いものを押しのけてきたのが、生命(いのち)の歴史であることも知っている。弱者をすべからく擁護するという立場は自然を超えている。争いも経済の仕組みも勝ち負けが生命の基本にあるからこそいまだに継続しているといっていい。

 これまでのデザイン力が、強く傲慢な人類を支えてきたという事実をまず認めよう。本当の課題はこの間に起こった、先にあげた僕ら自身の「内なる環境破壊」である。この問題は少々複雑だ。道具と一体化した自分こそがリアルな自分であるとすれば、「サイボーグ」への進化を不自然の結果として受け入れればいい。いや、本当の自分は道具を切り離したところにある、と考えるのであれば、38億年の生命の歴史の線上に自らを置き、「自然」についてしっかりと考えるべきである。

 「安心」とは何だろう。安全で便利な生活をさすのではないはずだ。目標を持って自らを鍛え、五感を十分に働かせる。ドキドキしながら危険を乗り越え、愛するひと(配偶者)を獲得したそのとき、「安心感」に包まれるのだ。僕らの祖先が、長い年月をかけてまさに命をつなぎ獲得してきたもの、それが「安心」ではないだろうか。道具や環境がますます介護型をめざし、安全が確保されても、「安心」が訪れるとは思えない。自己実現の実感こそが、安心の源であることに気づこう。

 おそらく今、多くのデザイン関係者はデザインの力を「モノや環境を整備しこれから起こるであろう被害や課題に対処する力」と捉えていることだろう。この考え方を修正したい。これは科学技術や工学、政治の良心に任せたほうがいい。それに代ってデザインは、「なぜ今、自分はここに生きているのか」これを想像することを第一とし、多様な生命の長い歴史に思いを馳せ、「かけがえのない自分を考える力」としたい。デザインが現代社会の対処療法であってはつまらない。デザイン力は、稀に見る生命力を発揮して今日まで生き続けてきた僕ら自身の、内に秘めたる力なのだから。いま、この思考によって「内なる環境破壊」について思索し、「安心の本質」に迫るべきである。