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1929年、東京生まれ。父は広島の浄土宗の僧侶であった。1945年に海軍兵学校に入学し、同年8月に終戦を迎え家族の住む広島に戻る。原爆で焦土化したまちに「凄惨な無」を見たことが壮絶な体験となり、デザインを志す原点となった。

東京藝術大学に1950年に進学。同志と「モノの民主化」「美の民主化」を説き、幾度のコンペに入選を果たす。その自主的なゼミに、活動を理解し支えていただいた小池岩太郎助教授の名を冠し「Group of Koike」と名付けた。これがGKという社名の由縁となる。

1957年、GKインダストリアルデザイン研究所を設立。デザインへの理解がない当時、その意義を伝え、実践を通じて信頼を得ていった。一方、「道具(「道に具わりたるもの」、「道の具わりたるもの」)」という独自のデザイン観を打ち立て、探究を続けた。
建築界に興った「メタボリズム運動」にデザイナーとして参画したことが、「日本万国博覧会 EXPO'70」でストリート・ファニチュアと呼ばれる領域の確立に繋がり、専門分野を超えてデザインの領域を広げることとなった。
さらに、日本のデザインを世界に開くため、1973年に国際インダストリアルデザイン団体協議会(ICSID)の東洋初の総会、「第8回世界インダストリアルデザイン会議」を京都で開催。1975年にはICSIDで日本人初の会長に就任した。
その後、社会が複雑さを増し課題が地球規模化するなか、細分化した専門分野を糾合し世界に提言・提案を行う「日本デザイン機構」を設立。さらに、「世界デザイン機構」をスペインのバルセロナに設立し、デザイン界の大きな繋がりを訴求した。一方、GK設立以来の「道具の思想」の実践的研究を目指す「道具学会」を設立。これらの考えを統合して新しいモノ文化・文明への転換を促すべく「道具寺道具村構想」を提示した。

榮久庵にとってデザインとは、モノを通して人に高貴さや生き甲斐をもたらす「モノづくりの道」であり、生涯を賭けてデザインの職能の確立と日本はもとより世界のデザイン界の発展に尽くした。


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